すべての経験を活かし、自分にしかできない日本料理を。
大多喜亭
大瀧 慎
▼高校卒業後の歩み
《1年目~》服飾系の専門学校に進学するため上京。
《4年目~》卒業後、服のデザイナーになる方法を模索しながら、東京で暮らし続ける。
《9年目~》鶴岡に戻り、家業を手伝いながら服づくりを続ける。
《11年目~》服づくりをやめ、本格的に料理人として歩きはじめる。
鶴岡市三光町、内川のほとりにひっそりと佇む老舗料亭、大多喜亭。100年超の歴史を受け継ぎ、ご両親とともに看板を守っているのが大瀧慎さんだ。料理の世界に入って9年目になるが、かつては別の世界で生きていくことを志していた。
「アパレル業界で仕事がしたくて、高校を出た後は東京の服飾系の専門学校に3年間通いました。服のデザイナーになる方法を模索しながらバイトで生活費を稼ぎ、卒業後もしばらく東京で暮らしていました」。コンビニや映画館、イベントフライヤーのデザインまで、さまざまなバイトをしていたという大瀧さん。友人と2人でようやく服づくりをスタートさせようという頃、突如として帰郷を余儀なくされることになる。
「父が病気で倒れてしまい、一時的に調理場に立つことができなくなってしまったんです。こっちにいても服づくりは続けられると思ったので、しばらく店を手伝うことにしました」。しかし、鶴岡で家業を手伝いながらの服づくりは、あまり長くは続かなかった。「ある程度服ができた時点で東京で展示会をしたんですが、これが大失敗で。今でこそ2人で笑って話せるようになりましたけど、一緒につくっていた友人とも大げんかになっちゃって。東京に戻ろうか迷った末、服づくりをやめて鶴岡に残ることに決めました」。
背中を押してくれた、服づくりとの共通点。
後ろ向きのように思える大瀧さんの選択だが、理由はネガティブなものだけではない。
「お金がなかったというのは、大きな理由の1つです。親からもお金借りてましたし。でも、確実に言えるのは、料理っておもしろいなと思いはじめていたこと。ものづくりすべてに共通しているのかもしれませんが、服づくりと似たようなおもしろさを料理にも感じることができたんです」。料理の道への関心を後押ししてくれたのは、その後習いはじめた茶道だった。日本料理のあり方に大きな影響を及ぼした茶道に、自らが服づくりで求め続けてきたかっこよさと同じものを見つけたのだという。「端的に言うと『わびさび』ですよね。それに気がついてから、料理人としてやっていきたいという気持ちが確固たるものになりましたね」。
好きだから、「難しい」が「おもしろい」。
基礎から料理を指導してくれたのは、もちろん4代目である父・進さん。しかし、つくる料理はそれぞれに違うそうだ。
「料理って、すごく性格が出るんですよ。父は豪快な人なんで、食材の使い方や盛り付けはもちろん、発想そのものが豪快なんです。自分は割と繊細にきっちりやる対極のタイプなんですが、料理人としてさらに先に進むためには、父のような豪快さも出せないといけないなと思っています」。
調理場に立つようになり9年目。メインの料理を任されるまでになった大瀧さんが、最も難しく、かつやりがいを感じることは献立づくりだ。
「うちには決まったメニューがありません。年齢や性別、地元の方かそうでないか、家族のお祝いか仕事の集まりかなど、さまざまな観点でお客さまが何を食べたいのかを考えながら食材を選び、その都度考えます。とても難しいことですが、だからこそお客さまに『おいしい』とか『よかったよ』と言っていただける料理をご提供できたときは、とても嬉しいですよね」。
料理人として生きることが「すごくしっくりきている」という大瀧さん。服づくりのことを考えることは、今でもあるそうだ。
「後悔とかは全然ないんですけど、あのまま服つくってたらどうなってたかなって、たまに思うんですよ。やっぱり、誰に言われるでもなく好きで一生懸命やっていたことですからね。高校生にも、そうやって夢中になれることを見つけてほしいですね」。終始穏やかだった大瀧さんの声に、少しだけ力がこもった。