Nov 28, 2018

みんなで笑顔になれる、「出会い」の農業を。

農家
齋藤 学(さいとう まなぶ)さん
三川町出身/三川町在住 30代

 

▼高校卒業後の歩み

・1年目 県外で暮らしてみたいという思いもあり、新潟県長岡市へ進学。

・5年目 鶴岡市の自動車会社に就職し、営業職として働き始める。三川町エリアを担当する。

・11年目 営業での出会いが縁で、事務職として三川町の老人ホームに転職。

・15年目 実家に戻り、仕事をしながら農業を手伝い始める。

・21年目 専業農家として、新規就農。

ご両親とともに、合鴨農法も取り入れながら7ヘクタールの田んぼで米づくりをする齋藤学さん。専業農家として就農したのは、39歳になった今年のことだ。「兄が2人いて、父も兼業農家だったので継いでほしいと言われることはなかったし、農業を仕事にしたいとも思ったことはありませんでした」。

工業高校で化学を専攻していた齋藤さんは、研究職に就くことを目指し新潟県長岡市の大学に進学。4年間材料開発を学んだが、新卒で選んだ仕事は自動車会社の営業職。その選択には、ある出会いが大きく関係していた。

「大学1年生のときから4年間家庭教師のアルバイトをやっていて、生徒さんのお父さんに猛烈に営業職を勧められたんです。中卒で社会に出て叩き上げで経営者になった方で、説得力が違うわけですよ。直感的に『社会人として成長するなら営業職だ』と思ったんですよね。親には猛反対されましたが、さまざまな方と出会うことができ、また社会人としてのコミュニケーション能力を磨くことができ、本当にいい経験をしたなと思っています」。

再び出会いに後押しされ、農業の世界へ。

就職したのは、鶴岡市の自動車会社だった。地元に戻ることを選んだのは、家の農業のことがなんとなく気がかりだったからだったという。6年間働いた後、事務職として三川町の老人ホームに転職。4年ほど経った頃、結婚を機に実家に戻り少しずつ家の農作業を手伝い始めた。「転職する少し前に、父が早期退職をして専業農家になり、合鴨農法を始めたんです。それまでの、農薬や化学肥料を使う農業よりも何倍も手間がかかるので、両親だけでは手が回らなくなってしまって」。

必要に駆られて田んぼに出るようになった齋藤さんだったが、手をかけた分だけ作物から反応が返ってくることがおもしろくなり、どんどんのめり込んでいった。専業農家になることを決めたのは、手伝いを始めて6年ほど経った頃。農業の世界へと背中を押したのもまた、人との出会いだった。「合鴨に限らず、有機農業をやっていると消費者さんとコミュニケーションをとる機会が結構あって。みなさん食への関心が高いんですが、ある交流会で出会った女性でものすごく熱心な方がいらっしゃったんです。首都圏に暮らしながらご自分でも野菜をつくっていて、合鴨農法にもすごく興味をお持ちで、月に3回くらいのペースでメールをくださるんですよ。『こういうときはどうしたらいいですか?』という栽培に関する質問とか『今どうなっているんですか?』という田んぼの状況確認とか。それがすごく刺激になって、いろいろ勉強するきっかけにもなったし、一方できちんと答えるにはもっとしっかり農業をやらないといけないなという思いもあり、じゃあ専業でやってみようと。そんな感じで就農を決めました」。

いろんな笑顔が、喜びであり可能性。

専業農家として1年目。まだまだ手探り状態で大変なことも多いだろうが、楽しみに待ってくれている方々の喜ぶ顔を思い浮かべながら日々奮闘中だ。「首都圏の催事などで販売をするとみなさんすごく喜んでくださって、やっぱり直接『ありがとう』と言われるのは嬉しいですよ」と笑顔を見せる。そして、「待ってくれている」のは、お米を買ってくださる方だけではない。「毎年、横浜の小学校から5年生100人ほどが田植え体験に来てくれるんですが、そのお世話を農協の青年部としてやっています。泥だらけになってはじめての田植えを楽しんでくれたり、おいしいおいしいってこっちの食べものを食べてくれたり、農業の大変さを感じ『もっと大切にごはんを食べます』と言ってくれたりして。もう随分前から、『食べていくのが難しい』と言われている農業ですが、これだけ喜んでくれる人がいるならまだまだ可能性があるんじゃないかって、最近は思えるようになってきました」。

その可能性を拓く第一歩として、齋藤さんは同世代の合鴨農家とともに鴨肉の販売にも取り組み始めたそうだ。有効活用ということだけでなく、合鴨農法で育てた米とセットにして売ることで、食の裏側にあるストーリーや命の意味を伝えたいという狙いがあるのだろう。出会いに導かれ、生きる道を選んできた齋藤さん。これからも出会いを活かし、楽しみながら、農業を軸にした笑顔の輪を広げていってくれることだろう。